集団現代とは、一つのテーマに沿って複数人が独自の観点でテキストを書き連ねていく、精神ブレーキ主宰の集団型テキストサイトです。

  
ランダム
精神ブレーキの主宰者的な、風な、っぽい奴。っちゅかまぁ、主宰者。何故こんなに回りくどいのかと言うと、主宰者がするべきような統率をあまりしていないから。形だけ。
01

 思った事は正直に言いましょう。とか言うけど。実は本音って言っても良い事ないんじゃないかなぁなんて思うんでさぁ。
 「あぁー、あれっすよー、俺は面白いっすよー。まぁ、正味、そんじょそこらのギャル男や登山家よりは面白い自信がありますよね。ギャル男が渋谷センター街にたむろしているときに、登山家が猛吹雪に耐えかねてビバークしているときに、俺は面白い事を言い倒してますよ。ギャル男が部屋を片付けられない汚ギャルの事を口説いているときに、登山家が最終的な目標はチョモランマですって言って『あ、ここはエベレストって言った方が格好よくビッシィーって決まってたんじゃなかろうか!』って後悔しているときに、俺はしゃにむに面白い事を連呼してますよ。正味、ここだけの話、実際問題、であるからして、俺は面白いんでゲス。」
下衆はお前だ、という話である。えげつない、目も当てられない、恥を知らぬのか、等と一日の半分を使って罵倒してやりたい。このえげつない発言が私の本音だが、実際にこう言うことはない。実際人に言う時は謙遜の連続である。へりくだり、相手を気遣い、自分が見栄を張っている人間だと思われないように言う。
  「いやいや、そんな、面白いだなんて。そんなことないですよ。僕より面白い人は沢山いますし。でも、そう思ってもらえると嬉しいです。」
これが普段の言い方だ。しかし、本音を上に書いてしまったせいなのか、普段の対応の仕方の方が下衆で、えげつない感じになってしまった。「お前そんな事言いつつ全てのギャル男と登山家をバカにしてんじゃねぇか!」と言われそうだ、今後ギャル男はまだしも登山家とすれ違うのが怖い、杖やピッケルでメタメタにされてしまいそうだ。
では今後はどうすれば良いのか、本音か、それとも、普段の言い方、つまり建前で喋るべきなのか。本音を言うと怪訝な顔をされるし、建前を言うと、本音を知られてしまっているから人は私の事を訝るだろうし。こりゃもうどうしたら良いんだろう。
要は本音を言っても良い、と言う事になれば良いのだ。自分がもしくは相手が本音を言ってもお互いが気にしない、そういうことになれば良いのだ。
私の好きな作家である「町田康」の作品の中に「本音街」という作品がある。その「本音街」というのはその名のとおりその街では本音を言って良いのだ。しかし一般の人々はその街やその街に行く人々の事を軽蔑し、嫌悪している。しかし「本音街」に行く人はそれを気にしない。そして「本音街」では本当に本音がまかり通る。例えば男が乗ろうとしたエレベーターから女が降りてくる、男はその女に「あなたはいい女だと思った。交際したいと思った。」と言おうとする、しかし女はそれに対しこう言う「いまエレベーターのなかで屁をこいたので臭いですよ」と。
素晴らしい、素晴らしき「本音街」ビバ!本音街!越したい!今すぐ越したい!本音街に!どこ!本音街はどこなのかしら!地図!地図を持ってきてちょうだい!
愕然である。この世の中に「本音街」はないのだそうだ。地図のどこをみても「本音街」という文字はない、あるのは「恵比寿」「渋谷」「六本木」「たまプラーザ」その他諸々だけである。あんまりにも解決法が見つからないものだから地図に「本音街」と書き加え。今私の住んでる街は私の中では「本音街」となったわけであって。でもだから何なのと言う事も重々承知していて。「もうどうしようもねぇよぉ」と本音をポロリ。袖が濡れる。




はにわ
ブログ「青空の魔人」にて、ネットラジオ「夕焼けローランドゴリラ」配信中。
02

本音と建前ってのは使い分けが難しいですよねぇ。
女子高生の言う「その袈裟かーわーいーいー」は確実に建前な訳で。
本音は、「袈裟がかわいそうなくらいお前が憎いわ!」な訳で。

正味な話、僕は本音で話したりすることがあまりないのです。
本音で心の底、いや、魂で語り合える人は周りに少ないものでして、魂談議はそうそう行われないのです。
実際、普通に本音で気兼ねなく話せる人がいたらいいなぁ、と思うわけなんですよ。
自分は遠慮しいなんで、いや、遠慮メンなんで基本何に対しても遠慮する人なんです。
仲良くなって友達になっても、「うわぁ、これ話したら引かれてしまうんじゃ・・・!」的なネガティブさんが出てきてしまうという始末。
仲良くなるまでは、まぁトントン拍子で進みますが、そこから入り込めないということ。そんなわけで、本音でも話せず、建前っ子に成り下がってしまう僕なのです。
まぁ、性格だよ、と言い切ってしまえば、それまでなのですが、どうにか治したい、クリニックりたい。
でも、今の自分もそれなりに悪くないと思っている自分がどこかにいたりするので、どっちゃねん、って話なんですけども。
要は、「本音と建前うまく使いたい」というところに軟着陸するわけです。
あーあ、うまく使いたいなぁ。あと、ハラミ食べたい。





ゆうじん
集団現代の数々の文章に触発され、その手を動かした!
03

 「本音」にも種類がある。言ってもいい「本音」と言ってはいけない「本音」だ。前者は褒め言葉などといった言われた相手が喜ぶ言葉である。後者は言われた相手が傷付いたり、怒ってしまったりするような言葉である。しかし、その境界線は非常に見極めにくい。こしあんだと思った饅頭の中にひとかけらの粒が入っていたときに、それをこしあんの饅頭と呼ぶべきか、それともつぶあんの饅頭と呼ぶべきか、はたまたおばちゃんに文句を言ってもう1つ饅頭をもらうのか(ここではやりくるめた饅頭、通称やりマンと呼ぶ)という極限の選択を迫られたときと同じくらいに難しい。このように言ってはいけない「本音」というのは深入りすると厄介な問題を引き起こすことになりかねない。
  さて、話を言ってもいい「本音」に戻すことにしよう。人から心のこもった賛辞の言葉をもらって不快に思う人あまりいない。少なくともバレンタインデーの前日にチョコを自分の机の中に仕込んでおく男子よりは少数だろう。ということは、言ってもいい「本音」というのは無条件で言うべきなのだ。「阿・吽」や「山・川」、「そば・うどん」のように余計な議論をしないで済む種類の言葉なのである。(そう、余計な議論はするべきではない)それなのに、何故か「ありがとう」が言えない人や、「・・・挿れて(ポッ)」が言えない人がいる。言いたければ言えばいいのだ。挿れる挿れないの行為については当事者間で議論するべきであるが、「・・・挿れて(ポッ)」という言葉自体に罪はない。何度も言うが言えばいいのだ。というより、言ってよ!タイミングとかわからないときあるから言ってよ!・・・とにかく、言ってもいい「本音」とはそういうものなのだ。
  それを踏まえた上で、別の話題で「本音」を出していこう。集団現代に掲載されているテキストはどれも個性的で読み応えがある。前回分(テーマ:嫉妬)のときにも述べた通り、各人のテキストの出来は非常に高いレベルにある。その彼らが今回「本音」というテーマで自由に主張できるのだから、面白くて考えさせられるテキストを寄稿してくるだろう。少なくとも私のような就職先すら決まっていないような人間が書いたものより満足できるに違いない。そんな中に自分のテキストが一緒に掲載されるのは非常に有難いことだ。感謝の気持ちを表した「本音」、つまり言ってはいい「本音」とはこのことである。これからも彼らと一緒に集団現代を盛り上げていくことが楽しみだ。

 最後にもう1つだけ「本音」について欠かすことのできない言葉があるのだが、勘の良い方は気付いただろう。

それは「建前」である。それではまた。